扉を開けると暗い部屋。
だけど誰もいない訳じゃない。
部屋の奥にはいつもいる、彼女が。

「ただいま」


SIREN -存在証明の鐘-


彼女は真っ暗な部屋の中の椅子に、俯いて座っていた。
小さな体を丸めて、余計小さく見える。

部屋の電気を付けると、
いつもの様におかしなくらい物が散乱していた。
彼女がやったという事は、何も言わなくてもわかる。

彼女は、僕が脱いだコートをソファに投げた音に
異様なくらい反応した。
よく見ると、体が小刻みに震えている。

「ごめんなさい…」

微かに震える声で紡ぎ出したその声は
信じられないくらい弱々しかった。
このまま彼女は消えてしまうんじゃないかと思った。

白い肌、細い腕、震える肩。
僕が強い言葉を放てば
簡単に壊れてしまいそうだった。

"気にするなよ"なんて言っては嘘になる。
疲れて帰ってきているのに、
更に部屋の片付けまでしなければならないんだから。
だけど"ふざけるなよ!"なんて言えないのは
彼女がどうしようもなく脆く、そして愛しいからだと思う。

気を遣って言葉を選んでいる事ですら
彼女を静かに確かに傷つける。

「どうしたの」

結局僕が吐き出した言葉は果てしなく月並みだった。

「…わからないの…」

俯く瞳には涙が溢れているような気がした。
"わからない"だって?
君がわからない事が僕にわかるはずがない。

恐ろしいくらいに繊細で
美しいくらいに儚くて
僕が守ってあげなければ、崩れてしまいそうな彼女を
僕は鬱陶しいとか、思ってはいけないんだ。

「…怖い…」

さっきよりもっと震えた声で
さっきよりもっと弱々しい声で
声にならない声で彼女は言った。

横目に見えたその声の主は
まるで陽炎の様で、幻の様で
怖くなった。

僕は物凄く焦って彼女の腕を掴んだ。
強く、彼女が、消えてしまわないように。

「どうしたの…?」
「美紗が…消えそうだったから…」

彼女はキョトンとした顔で僕を見た。
目に涙をいっぱい溜めて。
そりゃそうだよな…意味わかんないもんな。

僕は掴んだ彼女の腕の細さに愕然とした。

「何か食べよ」
「あんまり、食欲がないの」
「でもなんかお腹に入れた方が良いって」
「でもどうせ…もどしちゃうから…」
「何も食べないよりましだって」

彼女は本当に申し訳なさそうな顔をする。
なにも、気にしなくて良いのにな。
彼女がどうなろうと、何をしようと、
僕は君を裏切る気はないんだよ。

「本当に…ごめんね…」

彼女は再び俯いて、ついに涙を流した。
僕は小さなタオルを渡して、髪を撫でた。

「いいんだって。気にすんな」

ああ、ついさっき薄っぺらいと思った言葉を言ってしまった。
君が泣くから、僕も泣きたくなるだろ。
お願いだから消えないでくれよ。

愛してるから。


*


「ただいまー…」

いつもの様に暗い部屋の扉を開ける。
そしていつもの様に、小さく蹲った彼女の髪を撫でるんだ。
いつもの様に。

「美紗?」

…いつもの、様に…?

「美紗、どこ?」

彼女はいつもの様に、暗い部屋で僕を待ってるはずだろ?
彼女はいつもの様に、部屋を荒らして泣いているはずだろ?
彼女はいつもの様に…僕を待って…

美紗がいない。

僕は鞄を放り投げて走り出した。
彼女はいまどこにいるんだ?
彼女は僕なしで生きていけるのか?

彼女はやっぱり、陽炎の様に…


走り疲れた僕は、街の片隅でへなへなと座り込んだ。
彼女の涙が目に焼きついて離れない。
いま、彼女がどこかで泣いているかもしれないと思うと
苦しくて仕方ない。どうすれば良いのかわからない。

『…わからないの…』

彼女の言葉が耳を掠める。
街の雑踏にクリアに響く微かな声。

"わからない"だって?
わからないのは僕の方だ。
君は何処にいるんだよ…。


*


君を失ったあの日から、
僕は止め処ない喪失感を持って歩いている。
あの日に付いた傷は癒えずに
虚しさだけが僕を支配する。

そしてその虚しさの真ん中に
君が流した涙と、君が残した言葉が渦巻いている。
いま思えば、あの消えそうなくらい弱々しい言葉たちは
君の心からの存在証明の鐘だったんだ。

僕の中で木霊する君の声。
君のいない未来なんて見えないけど
すこしずつ、1秒先の未来を刻んでゆくよ。

君がまた僕の部屋で泣いているはずの
千年先の未来を想い描きながら。





2006/03/23

サイレン(3rdシングル,アルバム"ソルファ"収録)
ASIAN KUNG-FU GENERATION
"駆け抜ける街の片隅で響き鳴る君のサイレン開いてよ"